叔父の四十九日

死とは一体どのようなことなのか、
生物はいつか死ぬ。寿命があるから時間を無駄にしない。でも普段死を意識して生きてもいない。そして死からは逃れられない。

叔父の四十九日に参列した。まだ70歳、まだまだ10年は生きられた。
親や親戚の中でも一番自分に似てると言われていた。

叔父にもそう言われていた。

まじめ、頑固、曲がったことが嫌い、知らないことは調べないと気がすまない、宿題は先にやらないと気がすまない、知らないことがある自分が嫌い、意志が強い。人に教えてもらうより教えたい。自分を曲げない。屁理屈。



お通夜には参列できたが、都合により告別式は参列できなかった、やや後悔。

小さい頃、叔父の家の庭で濡らしたタオルをムチのように攻撃してきたことが面白くて、子供たちで笑っていた。
いきなり攻撃してきたことがやたら面白くてたまらなかった。

とある日、親戚一同が家にきたとき、私は顔を出すのが嫌で2階の部屋にこもっていた。その当時、親戚の集まりが嫌で、親の友人達がくるのも嫌で、顔を出さなかったが、なぜか電話番号を知らないはずの叔父が2階にいる私に電話をかけてきて、下に来なってやさしい言葉で誘ってくれた。特別な感じや、やさしい叔父に諭され、みんなの輪に入れた。

そんなやさしい叔父が、思春期の反抗的な自分を心を動かした。

いろいろ思い出はあるが、この2つは特に鮮明に記憶に残っていること。

訳あって叔父は住職と親しい間柄で、お経の後叔父の事を語ってくれた。過剰評価せず、叔父の性格や思い出を心から語ってくれ、その想いにみな涙が滲む。

死と向き合うこと、それが生きること。

葬式や法事、年を重ねるほどに回数が増え、考える機会が増え、死と向き合う機会が増え、死に支度、心の準備も整い、順番に、それが自然な道筋なのかな。

30人ほどの参列者の中で次に死ぬのは誰か?!順番があるわけでもなく年など関係なく、いつ死ぬのかなんて誰にもわからない、当たり前に明日はくるのか、来ないのか。

神も仏もない、あるのは現実を生きているという事実のみ、ネガティブな死と言う問題もちゃんと考えて受け止める。

本当の生きると言うことは死から逃げないことだと思う。ちゃんと考え、向き合う。家族で話す機会をもっと作ったほうがよいと思う。

人が死ぬと言うこと、時間は限られているということ、何を残し何を伝えるか。

生きる意味なんてない、あるのは残された人の心にある思い出だけ。

各々中にある真実、生きている限り、数えきれないほどの心を動かす思い出を大事な人達の心に刻み残したい。

四十九日親戚で集まり、改めて死と向き合い、大事なことを思い出せた気がする。各々の故人との思い出、各々の心の中でそれぞれ弔いをしよう。

ネガティブな問題を受け止め消化するからこそ人はポジティブになれるのだと思う。
弱い部分やコンプレックスも受け止め強みに変えることができたら、、、
また少し発想を変えてみてはどうだろうか、、また会えたら。

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